感想『アルプススタンドのはしの方』で最後まで何もできずにいる俺
―気がついたら映画の中に俺の居場所がどこにもありませんでした!!!
『アルプススタンドのはしの方』を観てきたんですけど、結果俺の映画体験の中で一、二を争う辛いものになりました。
あまりに深い傷を負ったので、この文章を通して自己分析をかけてみたいと思います。
ネタバレや肯定派への配慮はあまりしていません。
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あらすじはこんな感じです。
公式HPのスクショでごめんなさい。
登場人物はこんな感じです。
「はしの方」にいるのはこの四人
・安田…演劇部で脚本担当。登場人物の中でいちばん斜に構えていてとても好感が持てた。
・藤野…元野球部。頑張ってもレギュラーになれないしなあ、という実に真っ当な理由で野球部をやめた。
・田宮…安田の演劇部の同期。野球のルールを知らない。天然でかわいい
・宮下…成績優秀、帰宅部の眼鏡っ子。「地味で成績優秀な眼鏡っ子の憧れの人は野球部のエース」という設定が陰キャの儚い望みを無情にも打ち砕く!
そして
・久住…アルプススタンドの「真ん中」の人①。吹奏楽部の部長でトランペット担当で成績もよくて可愛くて彼氏が野球部のエースて。しかも演じるのが黒木ひかりて。概念としての「吹奏楽部の部長」を極め尽くしている
・厚木…「真ん中」の人②。暑苦しい教師。「みんなで一緒に声出そうぜ!」的なノリを押し付けてくるけど担任じゃない藤野の顔と名前をちゃんと覚えていて偉い。陰キャとしてはこの先生に見限られたらマジで”終わり”だな、と恐怖しました。
「本当の真ん中」野球部のメンツは『桐島』よろしく登場人物のセリフによってのみ語られます。園田は四番でピッチャーのエース、矢野は万年ベンチながら誰よりも練習を重ねる努力の人。
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で、アルプススタンドのはしの方で、あまり応援する気のない上記の四人が邂逅するところから物語が始まるんですけど
序盤で演劇部の安田がこんなことを言うんです、
「だって嫌やん?夏休みなのにさ。応援行かなあかんとか。(中略)しかもなんで全員強制なん?おかしくない?」
「ほんまさあ、何で野球だけ特別扱いするんかな、甲子園、わーすごい、みたいなさ。高校球児の汗最高みたいなさ。何なんかなあれ」
わ、わかる…!
俺が高校の時思ってたこと全部言ってくれてんじゃん!
厚木先生が「おまいらも声出せよ!皆で応戦しようぜ!」と気を吐いてもヘラヘラしながら基本無視。
野球部は強豪相手にぎりぎりの防戦一方。
こんな風な状況で、それぞれの引きずる「しょうがない」をにおわせつつ、楽しい会話劇が続きます。
…ここまでは楽しく観れました。愚かしくも一切予習をしていなかったので、「このまま『セトウツミ』みたいに会話劇で終わるのかな?」などと楽観していました。
ドラマチックな「高校野球」というイベントの「はしの方」にもそれなりの居心地の良さがあり、また違う形の青春がある、そんな映画だったらいいなと。
しかし無情にも中盤に差し掛かると物語が動き始め、なんやかんやで皆が立ち上がって野球部を応援し始めるのです。田宮が…藤野が…宮下が…
だんだん嫌な予感がしてきました。お前ら野球興味なかったんじゃないのかよ。なんでわざわざ甲子園まで、て愚痴ってたじゃないの。(色々ドラマがあったとは言え)なんで一生懸命声出して応援してんだよ。厚木のことバカにしてたろ。
「はしの方」がどんどん「真ん中」に呑みこまれていく…
一番斜に構えた性格の安田はなかなか屈しない。惨めったらしくネガティブワードを吐き続ける。「どうせ」「しょうがない」「(相手が強豪で)かわいそう」…
もう祈るような気持ちで安田を応援してましたよ
ひとりくらい、最後まで「がんばれ」って言わない(言えないヤツ)がいたっていいじゃないか…ていうかいるんだよ!そういうやつが!俺がそうなの!!!「真ん中」にどうしても行けない、行きたくない面倒な奴が!頼む、君が堕ちたらこの映画に俺の居場所はなくなってしまう…俺を置いていかないでくれ…
≪紆余曲折あってーーーーーー≫
安田「がんばれ!」「ナイスバッティン!」
あ!堕ちやがった!!!!!
…とこんな感じで「はしの方」の四人は会場の皆とひとつになって野球部を応援し、爽やかな大団円に向かいます。
と「野球部を一生懸命応援する」という行為が、「各々の『しょうがない』に向き合い、ケリをつける」ための”通過儀礼”として違和感なく作用するよう、脚本も演出もしっかり練られているので、このクライマックスに唐突感はありません。
劣勢でも諦めず、強豪相手に必死で食らいつく野球部員たちの姿(グラウンドを一切映さず観客のセリフと音だけで表現するのが本当に凄い)が、はしの方の四人の「しょうがない」を徐々に溶かしていく。そして”皆と一丸になって”野球部に熱いエールを送る…物語的な気持ちよさに満ちた、見事なクライマックスです。
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でもね、いるんです。野球部ひいては運動部の文化から派生しがちな「ひとつになろう」「クラスで一緒に」「みんなで応援」がどうしても受け入れられず、そんな空気になじめない奴が。少なくとも俺はそう。それになんで興味ない野球を通じて自分の諦観と向き合わないといけないんだよ。
「はしの方」ってそういうめんどくさい奴らが生き延びられるシェルターだと思うんです。
一生懸命ラッパ吹いて、大声出して本気で野球部を応援してる「真ん中の方」の邪魔はしないから、大人しくしているから、こっちはこっちで好きにやらせてよ…
でも、この映画は最後までそれを許してくれませんでした。
前述したように「野球部を一生懸命応援する」という行為が、「各々の『しょうがない』に向き合い、ケリをつける」ための”通過儀礼”として違和感なく作用しているので、この結末が不自然とは思いません。
だから「この映画に居場所がない」というのは、結局ひねくれ者のお気持ち表明にしかすぎません。
ただ、大勢がこの作品を絶賛する中、いまいち乗り切れず「はしの方」で苦い顔している人もいるんだぜ、と言うことをこうやって残しておきたいだけなのでした。
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ついでに
ツイッターでは『桐島、部活やめるってよ』の令和版だという感想も多く見られますが、本質的には全く違うと思います。
『桐島』の映画部は一貫して「はしの方」に居続け、スクールカーストの「真ん中」の人たちにとっては価値のないマニアックな映画を偏愛し、そしてクライマックスでは「真ん中」の論理が映画部を呑み込もうとした時に全力で抵抗する―「そいつら全員食い殺せ!」
『桐島』における映画部は「真ん中」の人たちの論理に価値を見出さず、寧ろ抵抗することによって輝く存在で、さらにその抵抗が「真ん中」にいる人(東出昌大演じる菊池とか)の心を静かに揺さぶったことに映画のカタルシスがありました。
一方、本作の登場人物は「真ん中」の人たちが体現する価値観を受け入れ、一体になるように仕向けられています。
「はしの方」にいることを肯定する『桐島』と「はしの方」から「真ん中」に歩み寄ることを奨励する本作には大きな隔たりがあるように感じます。
*1:※プログラムに掲載されている演劇版の台本から引用しているので映画のセリフと違ってなまりがありますがニュアンスは同じ